救世主のような悪魔
正月休みに映画「サタンタンゴ」(1994年、2019年にデジタルリマスター版で再上映)を観た。ハンガリー出身の監督タル・ベーラの名を、世界に知らしめた名作だという。何といっても凄いのは、全編7時間18分(途中、2度休憩がある)というその長さ。実はタル・ベーラの映画を、一度観たことがある。「ニーチェの馬」(2011年、154分)だ。これは辛い映画だった。寒々しい荒野に暮らす農夫とその娘が主人公で、彼らを流れ者たちが脅かす。水を汲んでいた井戸は枯れ、大切な馬は荒野に放たれる…といったストーリー(?)だったと思う。何せ監督が、「哲学者のニーチェが、ある日、広場で鞭打たれている老いぼれ馬に抱きついて涙を流し、そのまま発狂した」という逸話からイメージしたという映画である。世界に絶望しながら生きていくということの恐れ、不安を心象風景にしたら、こんな映画になるのかと思ったものだ。
さて、「サタンタンゴ」である。これは予期に反して、実に面白かった。冒頭の部分だけを書くと、村人たちが、死んだと思われていたイリミアーシュという美男が来るのを恐れている。つまり、イエス・キリストの復活を思わせる仕掛けである。もちろん、イリミアーシュは救世主ではなく、むしろ村人たちの弱さにつけ込む悪魔的な存在だ。ただし、その悪魔的な男もまた、警察の手先にすぎず、つまりは体制(舞台となっているのは、社会主義のハンガリー)の歯車の1つにすぎない。ここにもまた苦々しい、絶望的な状況、そして人間の愚かしさが克明に描かれている。
映画もまた思想である
この映画、どのシーンも異様にカメラが長回しで、1つのシーンが延々と続く。それゆえ、登場人物の表情、セリフ、動きを追っていかざるを得ない。しばらく観ているうちに、この映画は「私たちの姿を寓意的に、そして引き伸ばして見せている」ことに気づく。私たちは騙される村人でもあり、騙している(そして体制の歯車でもある)イリミアーシュでもある。日本のいたるところでタンゴの曲は鳴り続け、村人のように踊り続けているのかもしれない。そして疲れて眠っていると、クモの糸(政府の監視の目)が私たちに絡みつく。
新年早々、理屈っぽいことを書いてしまったが、映画もまた思想なのだと思わせてくれた名画だった。そう言えば、亡くなった彫刻家の流政之さんが、「彫刻は思想だ」と言っていたのを思い出す。芸術とは、私たちの自画像や世界像に修正を迫るもの、思い込みから解放してくれるとともに沈思黙考を強いるもの、と定義したいと思った。
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