知床・羅臼から出土した日本最古の銀製品 

旅のかけら

まるみのご主人に薦められ、羅臼町郷土資料館へ

旅の途中で、思わぬ拾い物をすることがある。先日、知床の羅臼町でとてもうれしい「発見」があった。その日はホエールウオッチングをする予定だったのだが、悪天候で中止に。「羅臼の宿まるみ」(いい宿でした)のご主人が、「町の郷土資料館に、ぜひ足を運んでください。いい展示がたくさんあります」と、薦めてくれた。その時は正直なところ、「田舎の資料館が、そんなにいいのかなあ」という程度だった。

ところが、である。旧小中学校の建物を使ったこの「羅臼町郷土資料館」が、凄いのだ。まず、縄文時代以降の出土品が順序よく並べられた展示物の解説が、どれも実に詳しい。学芸員の方があいにく不在だったので、その解説をじっくりと読むことにした。

なかでも心を惹かれたのが、植別川遺跡の出土品。約2300年前の続縄文時代の遺跡である。その墓から、小刀1点と金属片3点が見つかった。金属片を分析すると、純度90パーセントの銀と判明した。おそらく小刀の装飾品だったのだろう。解説によれば、佐賀県の惣座遺跡から銀製の指輪が出土しているが、弥生時代中期のもの。羅臼の銀製品はそれよりも200年ほど古く、日本最古のものだ(日本最古の銀製品の工房は、飛鳥池工房遺跡だという)。

銀の装飾品がついた小刀を携えていた

埋葬されていたのは、40代か50代の女性。当時は地面に穴を掘って、体を折り曲げて葬る屈葬がほとんどだったが、この女性は地上に真っ赤なベンガラを敷き詰めて安置し、その上に海岸から運んできた玉砂利を含む砂をかけ、覆っていたという。海とのつながりが強く連想される葬り方である。また、ベンガラの赤は血や太陽を意味し、復活・再生をイメージさせる。

当時の中国では、銀は金よりも精製が難しいとされ、非常に貴重なものだった。この女性はシャーマンであり、かつ女王のような、いわば卑弥呼のような存在だったのかもしれない。大陸のどこかで水葬に付されたか、あるいは補陀落渡海のように生きたまま海に流されて死を遂げたのかもしれない。海流を考えると、サハリンかアムール川河口あたりから、流されたのだろうか。

もっとも、独自の埋葬方法を伝えた者の存在、つまり随行者がいたとも考えられる。女性と随行者は、ともに生きてこの海岸にたどり着いたことも考えられる。その旅の目的が何だったにせよ、植別川付近に住んでいた人々は、敬虔な気持ちで大陸からの訪問者を受け入れたことだろう。

続縄文時代というと、本州のように米作りができず、弥生時代に移行できなかった「遅れた文化」と思い込んでいた。だが、死者への敬意を込めた埋葬を知る時、そのイメージは変貌する。古代の知床は辺境の地ではなく、大陸との交流を通じて多彩な文化を育んでいたのだ。

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