2冊の二人称小説

本日の一品

みんなバーに帰る

先日、知人と話をしていたら、たまたま小説の話になった。その人が最近読んだという『みんなバーに帰る』(パトリック・デウィット著、茂木健訳)を貸してくれた。タイトルからして、私にふさわしいと思ったのかもしれない。土曜か日曜の午後、静かな喫茶店でその本を開く。こんな風に始まる。「常連たちのことを書く。かれらは、寒さで羽を膨らませた醜い小鳥のように背中を丸め、アルコールで目を潤ませながらカウンターの前にずらりと座っている」。

ここだけを読むと、語り手は「私」とか「おれ」とか「トム」でもおかしくない気がする。しかし、数行先で、こんな文章に出合う。「そんなかれらを見ていると、君のほうが孤独を感じてしまい、浮世の冷たさが身にしみて、自助努力という言葉の意味を初めて知った子供のころ、ちょっと死にたい気持ちになったことを思い出してしまう」。そう、主語は「君」で一貫している。これはめったにお目にかかることのない、二人称小説なのだ。

「そうだ、二人称小説と言えば、えーっと、誰だったかな。第二のサリンジャーと呼ばれたアメリカの作家がいるんだが」と、私は知人に言う。だが、小説のタイトルも著者も、まったく思い出せない。わずかに記憶にあるのは、確かタイトルがカタカナだったこと。ネット検索してみたが、「第二のサリンジャー」では、それらしき人物が出てこない。30歳の私は、その小説の出だしを暗記していたくらい、好きだったのに。師匠に言わせれば「人名救助」に失敗したのである。

酒飲み向きの小説

その日、私は書棚を二度も見直したが、求める本はなかった(こうしたことがたまにある。私はなぜか本をなくすのだ)。あきらめきれずにサリンジャー、1980年代、などをキーワードにネット検索した結果、とうとう目指す小説にたどり着いた。『ブライトライツ、ビッグシティ』(ジェイ・マキナニー著、高橋源一郎訳)。これだ。ネットで手に入れて、ワクワクしながら開く。最初の二文。「きみはそんな男ではない。夜明けのこんな時間に、こんな場所にいるような男ではない」。最初の一文で改行されているので、いっそう最初の文がぐっとくる。いや、ぐっと来ていたことを思い出す。私もずいぶん夜明けまで飲んでいたから。

『みんなバーに帰る』は2009年に出版。著者は1975年生まれだから、ジェイ・マキナニーの影響を受けたのだろう。どちらも酒飲みには堪えられない小説である。きっと、君にも。


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