あるラーメン屋の思い出(鹿児島・天文館)

旅のかけら
釧路で食べた醤油ラーメン。さっぱりしていて、これはこれでよかった。こんどは鹿児島の豚骨ラーメンを食べたい。

取り立てて記憶力がいいわけではないが、よくいろいろなことを思い出すようになった。もう、いい年なのだ。新しいことはさっぱり覚えず、昔話ばかりが頭の中で展開している。先日、釧路でラーメンを食べていたら、ふと、鹿児島でのことを思い出した。

その頃、私は30代半ばだったと思う。「J」という雑誌によく紀行文を書いていた。半分遊びのような文体で、読者とともに楽しんでいられるいい媒体だった。その雑誌は今も元気なようだが、紀行文はもう企画されていないので、自然と私の居場所もなくなった。

その雑誌の編集長がある日、「青春18きっぷで、鹿児島まで行ってよ」とこともなげに言う。普通列車を乗り継ぎ、5日間で、だ。「疲れそうだな」と瞬間的に思ったが、にっこり笑って「喜んで」と答えてしまった。案外、鉄道好きなのだ。
その時のルートは、札幌から小樽、余市周りで、函館を経由して青森に一泊。その後、新潟で一泊(夜、日本酒が飲みたかったのだ)。さらに東京を経て、大阪で一泊。次は博多に泊り、中州の屋台で飲んでいたら、初老の紳士が「大変な旅だね」と言って、ビールをごちそうしてくれたのも、憶えている。そしてついに、鹿児島に着いた。

繁華街の天文館で「鹿児島ラーメンを食べよう」と、ある店に入った。もう店名は覚えていないが、おいしかったので、取材を申し込んだら、70歳くらいの店主の女性がとても喜んでくれた。同行したカメラマンのM君に、厨房の中まで写真を撮らせてくれた。最後にその女性は、私たちに「お小遣いよ」と言って、お金を渡してくれようとしたのである。
「いただけません」と断ったのだが、一人ひとりのジーパンのポケットに5千円札をねじ込まれてしまい、ありがたく頂戴した。一度会っただけの人にお小遣いをいただいたのは、人生でこの時だけだ。きっと私たちが若く、苦労しているように見えたのだろう。

その後、お礼にお菓子を送ったら、奈良漬けを送っていただくなど、しばらく付き合いが続いた。私はそう長くはなかったが、律儀なM君(私より5歳くらい年下だった)は、もしかしたら2,3年交流していたかもしれない。
それから数年後、M君は急性白血病で亡くなった。まだ30代の若さだった。あんなにいい男がなぜ、と今でも時々悔しくなることがある。

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