鮨屋の親父の塩辛

酒場物語
初めて飲んだ「北の錦本醸造」(小林酒造)。しっかりした味のある酒だ。

私には顔なじみの鮨屋が一軒ある。こう書くと、ちょっとリッチな感じがするのだが、その店は札幌から車で1時間ほどの日本海に面した港町にあり、年に数回、ランチに行く程度である。そのランチも、握りとえび天入りのそばが付いて1000円弱。庶民的な店なのだ。毎回車なので、酒を飲みに入ったことはない。

店主は70歳少し前だろうか。もうかれこれ10年くらいの付き合いになる。私を見ると、ひと言、ふた言、言葉を交わす。「お仕事ですか」とか「最近、釣りに来ていますか」とか。先日、久しぶりにその店だけを目的に、車を飛ばした。いつものランチを頼む。出してくれたのは、地元のウニ2貫を含む旬の握り12貫ほどと、茶わん蒸し、そば。むろん、握りのネタも数も、特別サービスである。

「いつもすみません」と言いながら、その日もおいしくいただいた。「今日はどんな用事で?」と聞かれたので、「この店が目当てです」と言うと、親父さんはうれしそうに笑った。
「忙しいのかい?」
「ええ、おかげさまで。まあまあです。ところで、親父さん、体の方は?」
「あまりよくなくてね。ここ一週間ほど、毎日病院通いだよ」

この店主、実は肺がんのステージ4なのだ。それでも毎日店に立ち、もう一人の若手とともに、鮨を握っている。仕事が趣味のような人なのである。
「はい、いつものお土産。今日はサクランボもどうぞ」

店を出るときに渡してくれたのは、親父さん手作りのイカの塩辛。500グラムはあろうかと思うほどの量が、冷凍してある。イカの身はネタにし、残った足とゴロで作るのだろう。塩だけで作った、かなりしょっぱいものなのだが、とにかくうまい。小さじ一杯で、ご飯が一膳いける。

親父さんの塩辛を肴に、自宅で盃を傾ける。昔読んだ丸谷才一のエッセイに「鮨屋で一番うまいのは、親父が自分用に作るイカの塩辛。あれを肴に寝酒を軽くやったりするのが、一番の贅沢だ」などと、書いてあったのを思い出す。その点だけなら、私は相当に贅沢である。
だが、その贅沢も親父さんが元気であればこそ、だ。いや、親父さんが元気でいてくれるのなら、私は喜んで塩辛を諦める。

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