どこへ出しても恥ずかしい人

小西酒造の大吟醸ひやしぼり。マグロ、ホタテでぐいっと。 日々のかけら
小西酒造の大吟醸ひやしぼり(1000円前後のお値打ち大吟醸)。ワイングラスでおいしい日本酒アワードで最高金賞とか。マグロ、ホタテでぐいっと。

生まれたときから、途方に暮れている

先日、映画「どこへ出しても恥ずかしい人」を観た。友川カズキ主演のドキュメンタリー映画である。まず、友川カズキとは何者か?  1950年生まれ、歌手にして詩人、画家、そして競輪愛好家(むしろ中毒者)である。私が彼を知ったのは、最近、朝日新聞のシリーズ「語る」(著名人の生涯を10回程度の聞き書きスタイルで連載する)で読んだことだった。その記事で初めて、私の大好きなちあきなおみの「夜へ急ぐ人」の作詞作曲が、この友川カズキであることを知り、俄然ファンになった。まずはこの曲をちあきなおみバージョン友川カズキバージョンで、聞き比べていただければうれしい。

その連載の反響のせいなのか、札幌で1回きりだが、彼のドキュメンタリー映画の上映となったのだ。ほぼ満席、観客はほとんど私かそれ以上の世代である。何が凄いと言って、友川カズキの語りが凄い。秋田弁が生き生きと迫ってくる。言葉の肉体性が実に豊かなのである。体があって、言葉が出てくる。そんな、当たり前と言えば当たり前だが、むしろ私たちの日常ではすっかり消えてしまったことが、ここでは生きている。たとえば、彼はこう言う。「生まれたときから、途方に暮れているんだよ」。これ、太宰治の「生まれてきてすみません」を即座に連想するのだが、秋田弁のイントネーションで語られる時、70年間、本当にずっーと途方に暮れてきたんだ、と思ってしまう。

日本のヘンリー・ミラーか?

彼の住んでいるアパートは、本当におんぼろだ。それを隠そうとしないし、恥ずかしいとも思っていない。なぜなら、彼は「自分を生きている」からだ。「人間、下には下があるんだよ」と言いながら、競輪場に通い詰め、ほとんどいつも負け、しかし、奇跡的に大穴を当てたりする。その時の彼は全身全霊で喜び、勝ち誇る。電話で息子にさえ自慢し、車の中でギターを弾きながら、友人と宴会をする。この人は現代に生きる狩猟採集民なのだ。

農耕民は計算しなければならない。採れた米のうち、どれだけを種もみとして残すか。米の貯蔵庫は、どんな大きさにするか。田んぼの面積を広げるには、どれだけの水や人手が必要か。すべて計算だ。それゆえに蓄積でき、社会的な富が生まれる。一方、狩猟民は「今日の猟(漁)では、大物が捕れた」と喜び、みんなを集めて分け合い、宴会になる。貯蔵ができないから、食べつくすのみだ。そして、明日は明日の賭けに出る(もちろん、獲物にある程度の法則性はあるが)。獲れない日の方が多いかもしれないが、それでも賭け続ける。友川カズキは競輪に賭ける狩猟民であり、蓄積を嫌い、友と分かち合い、「人生は何でもない」とうそぶき、時にライブで叫び、歌う。彼の代表作は21歳の時の「生きているって言ってみろ」である。映画の終わりには、彼がヘンリー・ミラーに見えてきた。

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