緊急事態宣言の夜

日々のかけら

停車中に声をかけてきた人

4月上旬、政府による緊急事態宣言が出された日の夜8時くらいだったろうか。私は札幌市の中心部から少し外れた、寂しい通りを車で走っていた。信号が赤に変わったので、一時停止した。今日も疲れたな、と思っていると、助手席側の窓からこちらをのぞく人がいた。私が気づいたのを見て、コツコツと軽く窓ガラスをたたき、話があるようなそぶりをしている。気が進まなかったが、驚いたこともあって、窓を開けた。見ず知らずの女性である。40歳くらい、黒いベレー帽、黒いコート。丸顔で、まじめそうに見える。

その彼女が「突然で驚かれると思いますが、今、友人と電話で話していて、お金がなくなってしまったので、住所を書きますから500円か1000円、貸してもらえないでしょうか」と言う。私はとっさに、「電話って、公衆電話じゃお札は使えないよ」と答えた。怪しいと感じたのである。「コンビニで、テレホンカードを買いますから」と彼女は言う。まあ、そうかもしれない。しかしテレホンカード、今でも売っているのだろうか。寸借詐欺ではないかという考えも、脳裏をよぎった。

そして信号は青に

しかし、こんなひと気のない寂しい場所で、赤信号で止まる車に話しかけるなんて、詐欺にしてはずいぶん効率が悪い。他方、こうも思った。そんなありえないようなことをするのは、この人が本当に困り、しかも札幌に身よりがないからかもしれない。新型コロナの感染拡大で、収入を失っている人も多いらしい。とくに製造業やホテル・旅館で働いていて、寮に入っている人は、雇い止めとともに住むところも失うケースが多い。そこまで追い詰められたら、私だって途方に暮れ、誰かに頼りたくなるだろう。

私の携帯を貸して、その友人にかけさせてもいいが、私の番号が知られるのも嫌だし、彼女も知り合いの番号を知られたくはないだろう。それに、電話の話は作り話の可能性もある。もう一つ、気になるのは、彼女について融通が利かない感じを受け、もしかしたら知的な面で問題を抱えているかもしれないと見えたことだ。こんなことが、一瞬のうちに頭の中を駆け巡った。すべては信号が青に変わる前の出来事である。夜気は冷たかった。私は疲れ、夜それ自身も疲れているのを感じた。

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