ススキノでの虐待をめぐる独演会、その後の出来事

酒場物語

千葉での虐待死をめぐって

酒場での話題は、もちろん時事ネタも多い。少し前の話だが、千葉で10歳の少女が虐待の末に死亡した事件があり、最近母親についての判決があった。冷え込む1月の深夜に、父親に冷水シャワーを浴びせられたまま、放置されたのが直接のきっかけだった。その後、6月には札幌でも2歳の少女が虐待の末に衰弱死している。
 この話を書くのは気が重いが、書いておかないと気持ちの整理がつかない。2月のことだから、札幌の事件の前である。いつものように、よく行くススキノの店で、私は師匠と飲んでいた。そこに二人組の客が入ってきた。すると、師匠が目配せし、指でバツ印を作った。警戒警報である。

テレビは、千葉の虐待死を報じていた。対策としての、児相と警察の連携による未然防止のことなど。すると、二人組のうちの一人、80歳を超えたと見られる小柄な男性の方(その店で一、二度会ったことがある)が、突然こう言い出したのである。
「まったく馬鹿ばっかりだよ」 甲高い声で、隣の男に語りかけている。だが、こっちに聞かせたくてたまらないのだろう。
「いま、なぜ警察を家庭に介入させないのかという議論になっている。おかしいじゃないか。そんなに個人の自由を国家権力に売り渡したいのか。馬鹿な父親が悪いんだ。それを止められない母親も。昔は夫婦げんかに警察が関わることはなかった。テメエらの問題だからテメエらで解決すべし、ということだよ。もし、夫婦げんかで女が死んだら、そんな男と結婚した女が馬鹿なのさ。テメエの責任だよ。それを警察だ、なんだという奴はいなかったんだよ」

神聖なるものの支配を恐れる

私は話の中身以上に、そのヒステリックな声にいら立った。この人は幼い時に虐待を受けたことがあるのだろうか。真冬に冷水シャワーを浴びせられたことは? 私ももちろん、ない。助けてもらえるのなら、警察でも児相でも、近所のおばちゃんでも、どれだけありがたかったことか。だが、誰もこなかった。10歳の女の子は、絶望とは氷のようなものだと思ったかもしれない。

彼はまだいろいろと話した(天皇制についても)のだが、ここに書くほどではない。警察は国家権力であるから、家庭という神聖な個人の領域に踏み込むことは、本来許されないことだろう。だが、神聖なるものは絶対性を誇るがゆえに、時に暴力装置に転化するのではないか。それが近代日本のイエと天皇制のパラレルな支配構造ではなかったか。
10歳の女子に起こったことは、「支配」であり、それを取り除く力を外部に求めざるを得ない。様々な意味で弱いものを守る力が衰え、機能不全に陥っている今の日本では、子供たちが一番の被害者になっているのではないか。その現実を無視して、オールドリベラリストめいた言説を弄するのは、果たして個人と社会、個人と国家の関係を事態に即して考えていることなのか。私の胸の中には、さまざまな思念が渦巻いた。

だが、私は何も言わなかった。もちろん、師匠が私の腕を抑えていたからだ。私たちはほどなく、店を出た。白けた気分で、別な店に行き、飲み直した。

死者には敬意を払わねばならない

その翌朝のことだった。師匠から電話があった。「あの毒舌家、今朝、自宅の風呂場で倒れているのが発見されたそうだ。私の知り合いの元上司だったので、連絡がきた」。偶然にしては、出来すぎている。彼は10歳の女の子と、同じ場所で亡くなったのだった。

しばらくして、またあの店に行くと、店の主人が静かに言った。「あの人もああいう言い方をしていたけど、ひとりで来るときは、しんみりした口調で、『オレも迷いがあってね』なんて言っていたんだけどね」  

死者には敬意を払わねばならない。
相手が80歳だろうと、10歳だろうと、はたまた2歳だろうと。

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