いざ、小豆島へ その2 尾崎放哉記念館

尾崎放哉が過ごした庵。庭もきれいで、こんなところに隠棲できたとは羨ましい気もする。 旅のかけら
尾崎放哉が過ごした庵。庭もきれいで、こんなところに隠棲できたとは羨ましい気もする。

小さな庵

小豆島に着いたのは9時半ごろだった。さっそく軽自動車を借り、島内巡りへ。島の道路はおしなべて狭いので、軽自動車が便利だ。このレンタカー店のオーナーらしき65歳前後の男性もまた親切だった。マップに印をつけながら「この寒霞渓から下る道はヘアピンカーブの連続ですから、通らない方がいいですよ。道幅も狭いので、地元の人もこすります。ロープウェイがお薦めです」と、アドバイスしてくれる。ほかにもいくつか通らない方がいい道路や駐車場の場所を聞き、まずは土庄港近くの尾崎放哉記念館へ。

西光寺というお寺の敷地に、あの「咳をしても一人」の俳人が最後に棲んだ住居がそのまま残っている。木造、二間の小さな庵だが、種田山頭火が最後に棲んだ一草庵(松山市)よりも少し大きく感じる。放哉は青年期に好きだった女性との結婚がかなわず、保険会社に入ったが酒で失敗を重ね、人付き合いもうまくいかず(狷介というか、気位の高い人だったように思う)、満州での保険会社経営にも挫折、京都で寺男をするようになった。そんな彼を唯一見放さなかったというか、堅い友情を持ち続けたのが、やはり俳人の荻原井泉水だった。

真言宗の西光寺本殿。立派な三重塔がある。
真言宗の西光寺本殿。立派な三重塔がある。

激しい咳

寺でも酒で失敗した放哉は、井泉水の紹介で西光寺にたどり着いた。たぶん身一つだったろう。妻子はいたが、京都に置いてきている。そんな彼を受け入れてくれたのが、西光寺であり、小豆島だった。島での彼の句には穏やかさも感じられる。たとえばこんな句。「障子あけて置く海も暮れ切る」。しかし、残された命は長くはなかった。

西光寺にある放哉と山頭火の句碑の解説。
西光寺にある放哉と山頭火の句碑の解説。山頭火は放哉の墓参に訪れて、この句を詠んだのだろう。

持病の肋膜炎が悪化し、小豆島で8か月を過ごした後、この世を去った。この病を思うと、「咳をしても一人」の咳は、ゴホンと言えば龍角散程度の軽いものではなく、胸水がたまり、鋭い痛みを伴う、激しく苦しいものだったに違いない。そんな咳が少し収まった後、それでもただ一人というところに、孤独がいっそう深くなる。記念館に置いてあった会報を読むと、「放哉南郷庵友の会」があり、放哉忌の集いもある。生前、理解者や友に恵まれたとは言い難い放哉だったが、今も多くのファンが彼の句を愛していることに、泉下で微笑んでいることだろう。

コメント

  1. 村岡武司 より:

    伊藤さま
    小豆島2を拝読いたしました。つい懐かしく小豆島Googleドライブしてみましたが、私が訪ねたのは半世紀も昔、当然その面影はありませんでした。岬の分教場などもっとこぢんまりしてた思いがしたのですが、きっと映画に使われたものを記憶に残していたのでしょうね。壺井栄さんの名作ですが、小説が生まれた時代、映画化されたその世界、その後まだ20代だった私が訪ねた時代、そしてこの度の伊藤さんのご報告された時代…と、なんだかパラレルワールドを走り回った気分でありました。ありがとうございます。

    • 今夜も男酒(伊藤哲也) より:

      村岡様
      コメント、ありがとうございます。二十四の瞳の学校は、今は小さな映画村のようなエリアに入っています。それとは別に分教場があるのですが、そこにはいきませんでした。残念! いずれその映画村のことも書きたいと思います。海に近く、いい場所でした。

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